東京四谷総鎮守│須賀神社

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三十六歌仙絵ご紹介(第7回)

皆様、新年明けましておめでとうございます。

昨日、東京では緊急事態宣言が発令され、 厳しい1年の始まりとなってしまいましたが、皆様においてはいかがお過ごしでしょうか。

 三十六歌仙絵巻ご紹介、第7回となる今回は、山部赤人の句をご紹介いたします。

【作者】
山部赤人(やまべのあかひと)
生没年不詳

山部赤人はヤマト王権の時代、皇族や有力な氏族が信仰していた天津神(天神系)の氏族、久米氏の一族と言われています。山部の姓は当時の豪族でありますが、これまでに紹介してきた歌人とは違い、朝廷勤めの中では比較的下級であったそうです。

制作年の分かる歌は全て聖武天皇の時代に作られていて、行幸の際の作品が多いことから、聖武天皇の宮廷歌人として活躍していたと言われています。幾度もの行幸において全国を行脚した中で生まれた歌は、その土地や自然の美しさを讃えた叙情的な作風で知られています。

『万葉集』には長歌13首・短歌37首が、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に49首が入首しています。後に柿本人麻呂とともに歌聖と称えられています。

 【掲載されている歌】
わかの浦に
潮満ち来れば潟を無み
葦辺をさして
鶴なきわたる

万葉集 巻六 919 –

 和歌の浦に潮が満ちて来ると潟がなくなり、葦の生えている岸辺をめざして鶴が鳴き渡っていく…。

神亀元年甲子、冬の十月五日に、紀伊国(和歌山県)に幸いでます時に、山部宿禰赤人の作る歌一首

 神亀元年(724年)10月、聖武天皇は初めて紀伊国(和歌山県)弱浦に行幸した際その景観に深く感動し、「弱浜(わかはま)」の名を改めて「明光浦(あかのうら)」とする詔を出しました。その後幾度も官人を派遣して玉津島の神、明光浦の霊を祀りました。

その行幸に同行した山部赤人が、この地で詠んだ歌です。

潟を無み(かたをなみ)は、「片男波」ともかけていて、和歌浦にある砂嘴(しゃし…砂州に似た地形)を表しています。

天皇を讃える長歌における反歌の一つでしたが、美しい絵画のような情景が目に浮かぶ名歌は、その後山部赤人の代表作となり多くの派生歌も生まれました。その後、和歌の浦は多くの貴族にとって美しく憧れの土地となり、和歌の歌枕として広く使われるようになります。

 行幸での天皇の威光と、さらに遣えている才能ある歌人より生まれた歌は、当時の全国の貴族たちにとってその土地のキャッチコピーのような印象にも感じます。長距離の移動が難しかった当時、このような歌を聴いてイメージを膨らませていたのかもしれませんね。

このコロナ禍で外出も難しい時世にも通じるようなお話でした。
皆様もぜひ、和歌からいろいろな土地への思いを馳せてみてはいかがでしょうか。