いよいよ夏も本番となり、暑さとの闘いが始まりました。
オリンピックの熱闘の余波が感じられつつも、いつもと変わらない四谷の路地には蝉の鳴き声が応援歌がわりに賑やかに聞こえて参ります。
再び例年にない夏となりますが、皆様お身体をご自愛くださいませ。
三十六歌仙絵巻ご紹介、第12回となる今回は、猿丸大夫の句をご紹介いたします。
【作者】
猿丸大夫(さるまろのたいふ/さるまるだゆう)
生没年不詳
猿丸大夫という名は、百人一首で覚えのある方も多いと思います。しかし、古今和歌集で初めて選出された時からすでに正体不明の歌(人物)であり、平安の当時から現代まで多くの研究と考察が重ねられたにも関わらず、結論も出ておりません。
「日光山縁起」という古代の神話から引用されたり、または万葉集の歌人などが通説として多く語られているようですが、確証はないようです。
百人一首を編集した藤原定家が、あまりの秀逸な作風に、その歌の背景などからヒントを得て名前をつけたのが始まりです。
その背景とは…この歌よりうかがい知ることができます。
【掲載されている歌】
奥山に
もみぢふみわけ鳴く鹿の
声聞く時ぞ
秋はかなしき
– 古今和歌集 巻第4 秋歌上–
※古今和歌集では「よみ人しらず」
人気のない奥山に
紅葉の中を雌を求めて歩む牡鹿の気配と
その鳴き声を聞くと
秋はしみじみと悲しくなる
目立つ技巧もなくシンプルに紡がれた言葉によって、目の裏に鮮やかに浮かぶ秋の風景と詫びの空気は、どの時代の人が詠んでもたやすくイメージできる秀逸な歌です。
また、その目線から、山奥に暮らしているだろう日常までも想像できるので、作者は身分が高く才能がありながら、山奥に蟄居した歌人ではないか。…そんな伝説に近い姿を求めてしまうのでしょう。
ところで、「もみぢ」には時代によって捉え方が違っていたと言われています。平安初期の頃は「萩の黄葉」で、のちに「楓の紅葉(落ち葉)」と変わっていったようです。
その理由は諸説あり、平安貴族の人々は当時あまり山深く入らなかったので、低木で庭木にも使われた萩を親しんだ、また中国文化の影響で黄色を愛でる習慣であった、などと言われています。
その後、本来の赤い紅葉が好まれるようになり、あの花札の絵にも見られる風景と認識されていきます。
猿丸大夫がどんな風景を見ていたのか誰にもわかりませんが、その時の空気や心持ちは、1,000年以上たった私たちにも鮮やかに伝わり続けています。
そして、1,000年の考察の一端に加わって、名もなき天才歌人の本当の姿に思いを馳せるのも楽しいと思いませんか。