例大祭も終わり、6月も半ばとなりました。
今年は梅雨の明けが早いのではないかと思えるほど、暑さの訪れが早い気がしますね。
三十六歌仙絵巻ご紹介、第21回となる今回は、源重之の歌をご紹介いたします。
【作者】
源重之(みなもとのしげゆき)
生:940年頃
没:1000年頃
清和天皇の皇子貞元親王を祖父に持つ。父は三河守兼信。兼信は陸奥国安達郡(福島県)へ土着(移住)したため、参議を担う伯父兼忠の養子になりました。
冷泉天皇の皇太子時代に仕え、身辺の護衛を務めました。その頃重之は東宮に百首歌を献上します。これはひとりで百首を詠み献上する歌集の最初の例とされ、以降さまざまなスタイルでの百首和歌が生まれていきました。
即位後は左右の将監となり、それから後は相模権守から国司として筑前・備後と地方官を歴任します。晩年は友人を頼りに太宰府や陸奥に滞在し、陸奥には60歳余りで亡くなるまでとどまりました。
職務柄移動の多い生涯でしたが、重之は旅を好み各土地でその風景や旅情を数多くの歌に残しました。人間味ある歌風とその土地の名や風景が織り込まれた歌は、1000年たった現在でも詠み継がれ全国各地に歌碑が残っています。
「拾遺和歌集」を初出に、勅撰和歌集に66首が入集されています。
家集「重之集」は、最古の百首歌です。
【掲載されている歌】
なつかり(夏刈り)の
たまえのあしをふみしだき
むれゐるとりの
たつそらそなき
– 後拾遺和歌集 第三 夏 219 –
夏刈りのあった玉江の葦原に
刈られた葺の上を鳥たちが群れ踏み歩いている
飛んで行く空さえもなくなったように
“たまえのあし”とは、当時の住居や生活道具などの重要な材料であったアシ(ヨシ)のことで、その中でも越前(福井県)の玉江の葦が名産地でした。当時葦といえば玉江のことを指し詠む歌もありました。
そして葦原に住み、やかましく鳴き騒ぐ鳥に「オオヨシキリ」がいますが、子育てを葺の草原で行います。
鳥たちは突然の刈り取りに、住処や子育てを邪魔され慌てているのでしょう。空へ飛び去ることもなく…というのは、そんな事情なのかもしれません。
いつもの日常をすこし騒がせる風景を詠んだ歌ですが、気にかかるのが“なつかり”です。“あし”(葦)の枕詞とも言われていますが、本来その収穫はたち枯れた冬であり、夏の刈り取りはあまり例がないものです。
そこで「夏雁」ではないか、はたまた「夏の狩」では?など推測することができます。どちらも意味は通じますが…
重之より後世の歌人、源俊頼による歌論『俊頼髄脳』にはこのように書かれています。
〝玉江とは越前の國にある所なり。蘆は秋かるものなるを、とく刈る程になりぬる蘆を夏刈りてきてつみおきたるがうへに鳥のむれゐるなり。たゞの江といふなり。水ある江にはあらず。夏刈りとは初めの五文字かりがねの夏まであるをいふぞともいひし、かりをよむぞともいへる人もあり。皆ひが事にこそ聞ゆれ。かりがねならば末にむれゐる鳥といはむにもあしく聞えぬ。又しゝがりのにはかにいでこむにも心得ず。これらが沙汰にこそ心えぬ人、心うる人は見ゆめれ。〟
「夏」であるために、どれも通じるようでおかしい、刈り取りがやはり正解であろうと記しています。
ほんの1代前にもかかわらず議論の的にされるほど謎のある作品ですが、実は「詠み人知らず」で、編纂される際に重之の名がつけられたと伝えられています。そのため真実はわからないままなのでしょう。
重之は、同じ設定で冬の歌を詠んでいます。
夏刈の荻の古枝は枯れにけり群れ居し鳥は空にやあるらむ (新古今 冬四 218)
こちらはまったく違う内容を詠っています。これからすると「旅の歌人」だからと土地の名が詠まれる歌を当てられたのでは?と推測してしまいます。
本人も了承していたのでしょうか。自ら詠んだ歌とどちらが先か、気になるところです。