東京四谷総鎮守│須賀神社

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三十六歌仙絵ご紹介(第25回)

肌寒くなり、冬らしくなってきましたね。
師走となり、今年も後一ヶ月を切りました。皆様はいかがお過ごしですか?
来週の冬至からは一陽来福御守の頒布も開始されます。
ぜひ年末年始も須賀神社にお越しください。

さて、三十六歌仙絵巻ご紹介、第25回となる今回は、藤原敦忠の歌をご紹介いたします。

【作者】
藤原敦忠(ふじわらのあつただ)
権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)
枇杷中納言(びわちゅうなごん)

生:延喜6年(906年)
没:天慶6年(943年)

父は藤原北家の公卿時平、母は在原棟梁女(ありわらのむねやなのむすめ)の三男として生まれます。この父の時平は、左大臣として仕えていた醍醐天皇の時代に、菅原道真と覇権を争って道真を太宰府へ流罪にした中心人物と言われ、その後太宰府にて道真は亡くなります。
以降、時平の周囲には短命で亡くなる者が相次ぎます。父の時平も40歳を前に死去し、一族は道真に祟られていると噂になります。それを身近に見てきた敦忠は、自分も長くは生きられないと感じていたようです。

12歳の若さで昇殿を許されてから順調に出世を重ねていましたが、その予想通り、従三位任権中納言に任命されて間もなく、38歳の若さで亡くなりました。

敦忠は身分の高い生まれに優秀というだけではなく、姿は眉目麗しく、さらに和歌や楽器の才能も秀でていました。まるでそれは祖父である在原業平のようであり、時の政変により出世が道半ばであることも同じでありました。

さらに業平と同じく、華やかでドラマチックな恋愛をし、その情熱を多くの和歌に記しました。

 

【掲載されている歌】
●この歌の詞書…西四条の斎宮まだみこにものし給ひし時、心ざしありておもふ事侍りけるあひだに、斎宮にさだまりたまひにければ、そのあくるあしたにさか木の枝にさしてさしおかせ侍りける

 

いせの海
ちひろのはまにひろふとも
今は何てふ
かひかあるべき
– 後撰和歌集 927–

 

伊勢の海の
広大な浜に拾いに行っても
今やどんな貝(甲斐)が
あるというのか

 

この歌は、ここまでに度々取り上げられてきた斎宮についての物語がベースにあります。
詞書にある「西四条の斎宮」とは、敦忠が使えていた醍醐天皇の皇女、雅子内親王のことで、932年に卜定により伊勢斎宮に選ばれます。

 

この頃、2人は互いに多くの恋歌を交わす仲でした。「敦忠集」には雅子内親王のことと思われる100首近い歌が残されています。しかし敦忠の身分といえども内親王との密かな恋はなかなか公には叶うものではなく、斎宮に決まったことで別れは突然訪れました。

 

敦忠はその心情を、
「『千尋の浜』のような広大な場所をどんなに探し歩いても、(彼女を)決して見つける(会える)ことはできなくなった。と詠っています。現代に置き換えると世界中探し歩いても、といったところでしょうか。

 

この「身分という壁に抗う恋」が、ある日突然引き裂かれる…というエピソードは、祖父である在原業平も経験し歌にしています(第8回)。
高貴な生まれで美貌の持ち主の、悲恋と知りながら止められない恋、そして避けられない運命。境遇はとても似ています。

 

まるで漫画のようなストーリーですが、敦忠も業平も実際に経験してその苦しみを歌で表現しました。おそらくこの時代の貴族も滅多に経験することができないドラマだったと思われます。この悲恋物語は、歌とともに様々な作品に編纂され、多くの人に語り継がれてきました。

 

三十六歌仙はその中の1つとして、千年以上の時代を超えて今も私たちに敦忠の儚くも情熱的な人生を伝えてくれます。
とはいえ、こんなプライベートな内容を世間に発表してしまうなんて、すごいことですね。