東京四谷総鎮守│須賀神社

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三十六歌仙絵ご紹介(第29回)

例大祭も無事終わり、いよいよ夏へと季節が変わりますね。

三十六歌仙絵巻ご紹介、第29回となる今回は、清原元輔の歌をご紹介いたします。

 

【作者】
清原元輔(きよはらのもとすけ)
生:延喜8年(908年)
没:永祚2年(990年)

 

元輔は、内蔵允清原深養父の孫で清少納言の父になります。百人一首に選出され、琴の名手であった祖父に同じく和歌や漢学の才能によって名を残します。
村上天皇の時代には、源順(第27回)とともに「後撰和歌集」の編纂、「万葉集」の解読の命を受けた梨壺の五人の一人に任命されるなど、当時の歌人の中でもトップクラスの活躍をしました。一方、官位にはさほど恵まれず、地方官としてさまざまな土地に赴任し、最終赴任地である肥後国(熊本)にて従五位上・肥後守として83歳という長寿で死去しました。

勅撰和歌集に106首も入首した和歌の才能と、様々な高官の邸に出入りして歌を詠んだというコミュニケーション力は、娘の清少納言に少なからず影響を与えたことでしょう。

 

 

【掲載されている歌】
・この歌の詞書…心かはりてはべりける女に、人に代はりて

契りきな
かたみに袖をしぼりつつ
すゑのまつ山
なみこさじとは

– 後拾遺和歌集 恋四 770–

 

 

約束しましたよね?
互いに涙で濡れた袖を絞りながら
末の松山に波が越えないように
心変わりなど決してないと

 

 

「契り(約束)き(過去を表す動詞)な(念を押す、または感嘆)」と確認の言葉で始まるこの歌は、過去の約束を反故にされたことを提示し、題材にしていることがわかります。

その内容とは、「末の松山 波こさじ」にかかっていますが、これは当時の和歌で「絶対にありえないこと」の比喩として歌枕に使われていた表現です。

その松山とは、現在の宮城県多賀城市にある宝国寺の裏山のことと言われ、元輔の生まれる約40年前に東日本一帯に起きた大地震(貞観地震)で、大津波が届かなかったことで注目され景勝地となっていました。

その「ありえないこと」に感化され生まれた枕詞は、多くは恋の思いや決意をのせて詠まれましたが、この歌も「(涙でぬれた)袖を絞りながら」交わしたほどの約束であることから、「お互い決して心変わりなどしない」と固く誓った関係が裏切られた辛さを表すために用いられました。

 

紫式部の弟である惟規の依頼によって詠まれたと言われていますが、この「末の松山」「袖をしぼり」「契る」を用いた悲恋語りは、その辛さの余りある表現方法が高く評価され、多くの派生歌を生みました。

 

現代での「奇跡の一本松」と同じような事象から生まれた文学表現「末の松山」ですが、はるか昔の天災をこのような形で現代にまで伝えられていることで、当時の情報をもたらしつつ、今を生きる私たちであるからこそ、深く考えさせられる言葉でもあります。